<インタビュー>
“アジアの渡り鳥” 伊藤壇
幼い頃からスポーツ万能だった伊藤少年。小学生の時、アイスホッケーの全国大会で優勝に大きく貢献し将来を嘱望された選手であったにも関わらず、43歳の現在まで情熱を注いできたのはサッカーだった。そして選手としてのほとんどをアジアで過ごし、1998年に始まったプロサッカー選手としての最後の地に2019年2月、グアムを訪れた。
(2013年、モンゴル「エルチム(Erchim)」のチームメイトたち)
“アジアの渡り鳥”の異名を持つ伊藤壇。アジア放浪の旅はJリーグ退団後の2001年に始まった。「これからアジアの時代がやってくると直感したから」。サッカー強豪のヨーロッパや南米ではなく、なぜアジアだったのかという問いに、とてもシンプルに答えてくれた。今でこそアジア各国の躍進が話題になるが、20年前はそうではない。だが伊藤は「多くの人がワールドカップでの優勝を目指すが、まず挑むのはアジア予選。アジアを知ることが日本のサッカー界の向上に繋がるはず」と、周囲の反対に躊躇することなくアジア行きを決めたという。エージェントや通訳を通さずすべて飛び込みで「1年1か国、最低10年」を目標にスタートした旅だった。
(2015年、ブータン「ティンプー(Thimphu)」のチームメイトたち)
子供の頃から楽なことより困難な方に面白さを感じてきた伊藤。アイスホッケーを辞めたのは全国優勝を手にし、次の目標を見出せなかったから。高校進学時、サッカー北海道大会で万年2位の学校に進んだのは「絶対優勝する」という大きな目標があったから、と振り返る。
(2011年ミャンマーの民族衣装ロンジーを着て。手にしているのは「ラカプラユナイテッドFC(Rakhine United FC)」のユニフォーム)
その負けん気の強さやチャレンジ精神が約20年にわたる選手生活を支えてきた。シンガポールからスタートし、オーストラリア(*1)、ベトナム、香港、タイ、ネパール、ラオス、ブータンなどアジアの20の国や地域を巡る旅。楽しいこともたくさん経験したが、プロ契約直前の白紙撤回など思い通りに進むことは滅多にない。Jリーガー時代や日本との違い、国による文化やサッカーに対する意識の違いに、初めは戸惑うことや納得いかないことの方が多かった。しかし、さまざまな環境下でプレーしたことによって出会えた人々、サッカーだからこそ訪れることができた国々、アジアだからこそできた体験の重みを、引退を目前に控えた今、実感している(*2)。
(「ナパ・ロンヴァーズ(NAPA Ronvers)」のチームメイトとともに。写真提供:佐伯奈里)
伊藤にとって22番目の地となるグアムは選手生活最後の場所。今まで訪ねた中で唯一プロリーグがない地域だ。
(「ナパ・ロンヴァーズ」は今年リーグ優勝を決めた。優勝決定戦で伊藤はハットトリック、1アシストで大活躍。写真提供:西岡利夫)
所属するアマチュアチーム「ナパ・ロンヴァース(NAPA Ronvers)」は試合当日にメンバーが集まらないことや、キーパーが来ず、他のポジションが代わりを務めることも度々。しかし、そんな状況を楽しいと思える余裕が今の伊藤にはある。グアムサッカー界を「まだまだ発展の余地はある」と分析し、アマチュアリーグだからこそ、伊藤のように海外のプレーヤーをゲストとして招き、サッカーに携わる人々の刺激になればという。
(グアムで行われたサッカー教室。写真提供:藤一番)
2014年、伊藤はプロサッカー選手育成プロジェクト『チャレンジャス』を設立。2017年には小中学生向けのサッカースクールもスタートさせ、引退後は指導者として子供と接する傍、自身の体験をもとにサッカー選手の海外移籍をサポートする。現在の夢は5年以内にアジアの国の監督を務めること。大きな夢を叶えるために今年1年の目標をたて、その目標に向かい、今月の、今週の、今日の目標をたてる。常に目標を持ち、達成感を味わい、モチベーションを保つのが伊藤流。現役生活は退いてもアジアを見据えた伊藤のサッカー人生はまだまだ続く。
(*1)オーストラリアやグアムはAFC(アジアサッカー連盟)に所属。
(*2)プロサッカー選手は2019年4月末で引退。取材は4月中旬。
『チャレンジャス』については こちら をご覧ください。